No.760 アリストテレス

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【癒しのことば】Vol.760   2007/3/28       

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 「われわれが感じたり考えたりしているのは、
  自分というものにはっきりと気づくためである」

             -- アリストテレス(古代ギリシアの哲学者)--

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 お釈迦さまには、数多くの弟子がいました。

 なかでも、特に優れていた高弟が10人いて、釈迦の十大弟子と呼ばれてい
 ます。
 そのうちの「智慧第一」として知られていたのが、舎利弗(しゃりほつ)と
 いう人です。

 舎利弗は、ときどきお釈迦さまに代わって説教するほど、まわりの信望を集
 めていました。
 なるほど、智慧第一と言われるだけあって、お釈迦さまの教えを真に理解し
 て、常にそれを実践していたのでした。

 お釈迦さまは、悟りをひらくためには物事への執着を絶つことが大切だと教
 えておられます。
 
 また、修行のひとつとして、布施という自分が持っているものを人に施すこ
 とを示しておられます。

 舎利弗は、この布施の修行をしていたので、彼の元へやってくる人たちに、
 自分が持っているものをすべて気持ちよく与えていました。

 あるとき、そんな舎利弗の評判を聞いた、ひとりのバラモン僧が、彼を試そ
 うとやってきて言いました。
 「あなたは、何でも施されるというが、それは本当か?」

 舎利弗は、微笑んで答えます。
 「はい、私が持っているものなら、どんなものでも施しましょう」

 すると、バラモン層は、こんなことを言うのです。
 「では、あなたの眼をひとつ私にくださらんか」

 舎利弗は驚き、あわてます。
 「私の眼は、私の顔についていてはじめて役に立つものです。あなたが、そ
  れを受け取っても何の意味もない。
  どうして、そんなものを欲しがるのですか?」

 バラモン層は、意地悪く言います。
 「布施とは、何のこだわりもなく、自分の持ち物を人に与えるものだと聞い
  ています。
  それなのに、あなたは、布施をするのにいちいち理由を尋ねるのですか?」

 舎利弗は、ハッと気づき、眼に執着を持っていた自分を戒め、思い切って眼
 に指を差し入れ、眼球を取り出しました。
 当然、眼球も手も血だらけです。

 バラモン層は、その眼球を受け取ると、
 「なんだ、これが目玉か。こんな小汚いもの、持っていても仕方がないな」
 そう言って、舎利弗の眼球を投げ捨て、足で踏み潰してしまったのです。

 それを見た舎利弗は、怒りがこみあげてくるのをどうしようもありませんで
 した。
 そして、その瞬間、自分の修行がまだまだ足らないことを知り、さらに厳し
 い修行の道へ進んでいったということです。


 ......これは、ある経典に書いてあるエピソードを、少し私なりにアレンジし
 たもので、このような出来事が実際にあったわけではありません。
 安心してくださいね。

 
 さて、どうして、こんなお話を読んでいただいたかというと、お釈迦さまの
 高弟として有名だった舎利弗のような人でも、なかなか執着を捨て去ること
 はできないのだ、ということを知っておいてもらいたかったからです。

 執着をなくすとは、そのものに対して、完全に思いを捨ててしまうというこ
 とです。
 
 自分の持ち物、たとえそれが自分の眼球であったとしても、あげてしまった
 のなら、それがどうされようとも気にしてはいけません。
 
 舎利弗の例で言うと、悪いのは、そんな意地悪をするバラモン層です。
 誰だって、目玉を寄こせと無理を言われたうえ、せっかくあげた目玉を踏み
 潰されたら、怒って当然でしょう。

 でも、そこで怒りを感じてしまえば、あげてしまった後でも、それに執着を
 残しているということになってしまうのです。

 こだわりや執着をなくすことが、楽に生きるためには大切だと言われたりし
 ます。

 それはいいのですが、そう聞くと今度は、「こだわってはいけない」「執着
 してはいけない」と強く思ってしまって、少しでも自分がこだわったり執着
 していることに気づくと、これではダメだと自分を責めてしまう人がでてき
 ます。

 つまり、「こだわってはいけない」「執着してはいけない」ということに、
 こだわったり、執着したりしてしまうのですね。

 楽に生きるために、こだわりを捨てようとしているのに、新たなこだわりを
 創りだしてしまっているのなら、何の意味もありません。


 こだわってしまってもいいのです。
 執着してしまうことも、仕方がないでしょう。

 お釈迦さまの高弟でもなかなかできないことなのですから、私たちが、でき
 なくても当たり前。

 ただ、こだわっていたり、執着している自分に気づくことができればいいの
 です。
 今、苦しさを感じているのなら、それがどこからきているのかがわかればい
 いのです。

 手品のタネがわかっていれば、ただ翻弄されているだけでなく、どうすれば
 いいのかがわかってくるでしょう。

 こだわりをなくすことが目的ではなく、楽になることが、いちばん重要な目
 的なのですから。

 そう、すべては、このすばらしい世界を楽しむために......

このブログ記事について

このページは、shinが2007年3月28日 12:41に書いたブログ記事です。

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